長浜駅の周辺は、豊臣秀吉がまだ羽柴秀吉と名乗っていた頃の城下町です。
この街を歩くと、「従是○○長濱領」と書いた石柱がいたるところにあります。長浜を歩いた事がある人なら見覚えがあるのではないでしょうか。これちょっと気になりませんか?
従是北長濱領(これよりきたながはまりょう)と刻まれた石柱があります。
なにが書いてあるのやら。じっくり読んでみると。
豊臣秀吉公と朱印地(しゅいんち)
ここに記されている朱印地とは、1574年頃に秀吉公が長浜城を建設した際に決めたもので、「年貢を取りませんというエリア」の事のようです。
秀吉公が長浜を去り江戸時代になっても、このルールは続けられました。ただ江戸時代になると上記の地図にある赤枠の範囲内になりましたが、年貢の免除は続きました。1651年に「この範囲までは長浜の年貢免除エリアですよ〜」という石柱が建ちました。その時のものが今でも5本残っていると書かれています。
↑文字がはっきり読める新しい石柱は、平成15年に「秀吉公ゆかりの石碑•石柱建立事業」によって30本の石柱が復興されました。
当時の人は長浜を治める大名が入れ替わると、年貢が増えるのではないか?厳しくなるのではないか?とドキドキでしょうね。秀吉公は朱印地を決め、城下に活気をもたらすようにし、町民に優しいまちづくりをされたので、今でも長浜の人たちに「太閤さん」と呼ばれて愛されているのかもしれません。
それにしても江戸時代から今まで残る5本の石柱が気になりませんか?もちろん↓チェック済です。
探してきましたが、今回は文章が長くなってしまいそうなので二回に分けます。次回「長浜で豊臣秀吉が愛される理由とは?朱印地の境界線を探してみた<後編>」で江戸時代の石柱を紹介します。