北国街道(ほっこくかいどう)を歩く旅。パート(3)
鳥居本(滋賀県彦根市)から出発し、北国街道長浜宿(滋賀県長浜市)まで北上してきました。
北国街道を歩く
北国街道は、中山道の鳥居本(とりいもと)から分岐し、琵琶湖東岸を北上し北陸方面へとつながる道です。
※近江北国街道中絵巻(近江歴史回廊)を参考に歩いてます。
※北国街道を外れて寄り道もしますので、実際の道と異なる箇所がございます。
「ただひたすら歩きたい」と言うだけの理由で、はじまった北国街道を歩く旅ですが、古の街道の魅力に取り憑かれつつ旅は続きます。
北国街道の道のりは長いですが、この記事も長いです。これから北国街道を歩かれる方のご参考になれたら幸いです。
北国街道の面影を探して(長浜ー曽根)
いよいよ北国街道長浜宿を抜けました。
祇園町南の交差点からは大きな道沿いを北上していきます。
この辺りは道幅が狭く車の交通量が多くなるので、気をつけていきましょう。
森町からは国道8号沿いを東へ1本中へ入ります。国道と平行に北国街道が続いています。
集落へ入ると、一気に車の通りがなくなりました。
曽根の集落の中には綺麗な川が流れていたり、通りの至るところに北国街道の面影を残されていますよ。
歩いていると「北国街道」と書かれた大きな石碑を発見!
十郎(寿老)橋
北国街道 十郎(寿老)橋の由来
曽根の南に昔から、十郎川という川が流れていた。
そこに十郎橋とか寿老橋という名でよばれた大きい橋が架けられていたという。
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<省略>
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十郎川の流れていたこの市場の地も、その当時はおそらく琵琶湖の岸であったに相違ない。そしてまたこの石橋は、多くの旅人の通行に便利なように大きく丈夫なものにと造られたのであろう。現在ここには昔を偲ばさるものは何一つ残されていない。しかし、古の人が架けた橋のロマンを心に描くのも楽しいことである。
北国街道 十郎(寿老)橋の由来より一部引用
ほらこんなところにも北国街道の石柱が。
旧曽根学校から移築された地蔵堂
変わった形の地蔵堂がありました。こちらの地蔵堂は旧曽根学校の玄関から移築されたものです。
竹生島道の道標
お地蔵さんから少し歩くと、またまたこれまで見てきたものとは違うの大きな道標がありました。
説明書きによるとこの道標は、私たちのように北国街道を北上してきた旅人を竹生島へ導く道標です。高さが3m以上で現存しているものとしては滋賀県で1番背の高い道標と書かれています。
先ほどの十郎橋の説明にも、「おそらく琵琶湖の岸であったに相違ない」と記されていた通り、この辺りから旅人は竹生島へ向かったのでしょう。
さぁ、歩いて行くと姉川にかかる橋が見えてました。
徳はチャージ形式で積む(虎姫ー河毛)
虎姫へ入りました。国道8号沿いを歩いてます。
歩道があるので安心ですが、車の交通量がとても多い場所なので、気をつけて歩きましょう。
長浜市唐国町の住宅街の南側にさしかかると、田園の中に大きな石碑が立っています。(国道8号の西側)
北国街道から少し外れますが、ちょっと寄り道をしてみることに。
山内一豊公初所領之地
山内一豊公初所領之地
天正元年(一五七三)夏、織田信長の越前朝倉攻めに従軍した山内一豊は、近江と越前国境刀根坂(とねざか)で、朝倉軍きっての強弓の士、三段崎勘右衛門(さんだんざきかんうえもん)と死闘を繰り広げます。
三段崎が放った矢は、一豊の左のまなじりから右の奥歯までを貫きましたが、これにひるむことなく、見事勘右衛門を打ち取りました。
そこへ家臣の五藤吉兵衛為浄(ごとうきちべえためきよ)が駆けつけ、一豊の顔を貫く矢を口にくわえて抜こうとしましたが、一豊が「顔を踏みつけて抜け」と命じたので、為浄は草履を脱ごうとします。しかし一豊は「そのまま踏め」と命令し、為浄は草履のまま顔を踏みつけ矢を抜き取ったいいます。
打ち取った三段崎の首は秀吉の元に持ち込まれ、さらには信長の前で首実検が行われています。
一豊は、この武功により、近江唐国四百石の知行を与えられました。
名称 | 山内一豊公初所領之地 |
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住所 | 滋賀県長浜市唐国町 |
アクセス | JR虎姫駅より車で約5分 小谷城スマートICから車で約10分 |
山内一豊公は武功によって、近江唐国四百石の知行を与えられました。
寄り道を終え、北国街道に戻ると、大きな道に出ました。
唐国を抜けると橋を渡って馬渡(もうたり)へ入ります。
馬渡(もうたり)
全国的に馬渡(うまわたり、まわたり 等)の読み方で使われている地名はいくつかありますが、馬渡(もうたり)と読まれるのはここだけです。
国道8号線の西側、高時川に橋が架かっています。
北国街道であったのにも関わらず、昔は橋がなかったため、渡し船がなければ対岸へいけません。
南北時代の八相山(はっそうざん)の戦いの後に足利尊氏(あしかがたかうじ)が北陸へと向かう際に、川渡りを村人が協力したことで、川を馬で渡ったことから馬渡と命名されるようになったと記されています。
※足利尊氏が弟の足利直義と戦った八相山の合戦(虎御前山)
竹生島を示す道標がありました。川を伝って島へ行ったのでしょうね。
橋を渡ると下へ降りる階段があって、その先の馬渡の集落を通る北国街道を見渡せました。
馬渡から速水(JR河毛駅近く)までは、ときどき国道8号沿いに出なければなりません。
どこまで歩いても、北国街道の「松の木」や「お地蔵さん」は気になる。
次回の北国街道を歩く旅は速水(河毛駅付近)から木之本へ!?
速水(河毛駅)に入ったところで日が暮れてきたので、今日はここまでとすることに。
鳥居本(彦根市)からはじまった北国街道ウォーキング。遂に長浜市湖北町速水(河毛駅付近)まで歩いてきました!
なんとなくだけれど、古い街道の魅力もわかってきたので、これから道を歩くのが楽しくなりそうです。
次回はいよいよ北国街道木之本宿へ。新たに旅の仲間が参加か!?